2010年 04月 12日
君がまだ幼かったころ、母親の背中で ねんねこ半纏に包まれて、寒い日に観た、 満開の桜を覚えているかい? そこは、町で唯一の桜が咲き乱れる公園だ。 その日は、アルプスから吹き降ろす風が、 ものすごく冷たい日だった。 山葵田を見下ろす丘に陣取った大人たちは、 酒を酌み交わし、子供のようにはしゃいでいる。 カラオケなんかない時代だ。 地元の芸者衆も交え、寒さなんか吹き飛ばすような 盛り上がりだ。 君はハラハラと散る桜の花びらの行き先を 母親の背から眺め、無邪気に喜んでいる。 突然、手を差し出し掴もうとした。 小さな手の平には、薄いピンク色をした 数枚の花びらが、君に握り潰されていた‥‥。 あれから幾星霜。君は一人、あの丘に佇む。 その年は、例年にない3月の暖かさが、桜の開花を早めた。 寂れた公園の桜は、あのころと同じように咲き誇っている。 でも、そこにはもうあのころの賑わいはない。 大きくなった手の平には、いっぱいのこぼれ桜を そっと載せている。大切な思い出を零さぬように‥‥。 君は、この町を離れ、この丘を離れ、もちろん、 母親の背中の温もりとも離れ、生きてゆくのだ。 君の見上げる故郷の空は曇っているが、その空は 明るく、雲の切れ間から陽光が幾筋も射している。 あのときと同じように、無邪気に笑う17歳の君の頬に、 すっかり春めいた風が通り過ぎていった。
by don-viajero
| 2010-04-12 19:57
| 超短編小説
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