陽気なイエスタデイ

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カテゴリ:山( 36 )


2008年 08月 13日

中高年登山

夏山も本格シーズンに入り、毎日のように60歳前後の
事故のニュースが流れる。なかには70歳を超える人もいるのには
驚きを通り越して呆れるばかりである。

我々が山に狂っていた時代には、同世代の人間が主だった。
そういった残党が中高年登山として、今でも登り続けているのかもしれない。
しかし、その多くは登山ツァーから始まり、深田久弥の「日本百名山」が
火をつけたことも否めないであろう。

山に登ることは一歩一歩進めれば、そう難しいことではない。
だが問題は下りだ。老化した膝が脳みそで考えているようには動かない。
結果、浮き石に乗り、こけて転落。そんなのばっかりだ。

みんなそれなりのトレーニングをして登っているのか疑いたくなる。
私は週一で10㌔ランニング等をやっている。
(このことに関しては後日「ダイエット」に絡んで記すことにするとして‥)
おかげで現在、体力年齢42歳を維持し続けている。
さりとて、危なっかしいおじちゃんやおばちゃんたちが蠢(うごめ)く山に
行こうとは思わない。これは山に冷めたのではなく、
昔のように登れない自分を容易に察するからである。

'74年夏、上高地にあった高校のBCをたち、横尾本谷右俣から横尾尾根。
岩稜が続く尾根上の岩の下でビバーグ。南岳経由で槍ヶ岳。
大勢で賑わう槍の頂上を尻目に子槍登頂。一人大の字になってトカゲ。
帰り際、遥か眼下の千丈沢目掛けて小キジを打つ。懸垂下降で降り、
先輩のいる大天荘で一泊。翌日、常念小屋から一ノ俣を下りBCへ。
おそらくそんな元気一杯な登山を出来ない寂しさが、
登ることを躊躇(ためら)わせているのかもしれない‥‥。

雑学:「アルプス一万尺」
♪アルプス一万尺 子槍の上で アルペン踊りを さぁ踊りましょう 
 子槍の上で 小キジを打てば 千丈沢に 虹が出る♪
何故、槍の頂上ではなく子槍なのか?これは槍ヶ岳の標高が3180m、
子槍が3030m。ちょうど一万尺だから。
ただし、その頂上は踊れるほど広くはない。

by don-viajero | 2008-08-13 08:05 | | Comments(0)
2008年 05月 10日

GW

GW最後の6日に私用で山葵田近くに行った。

快濶な五月の陽光に照らされた安曇野は、水の張られた田園の海に
まだ多くの雪を抱く北アルプスの雄大なパノラマが映し出されていた。
真正面の常念坊の雪形を現した常念岳から南に延びる蝶ヶ岳の稜線。
北は白馬三山までくっきりと見渡すことができた。
とりわけこの時期、鹿島槍ヶ岳の北股本谷の雪渓を凝視するのが常である。

山岳同人「餓鬼」を結成した年の1975年から79年まで、
毎年、西俣出合上部に「鹿島槍南壁合宿」と銘打ってBCを構えた。
少ないときで三人。多い年で十人。このときにはテントを三張り設けた。

積雪期における鹿島槍南斜面周辺はバリエーションルートがいくつもある。
布引東尾根、鎌尾根、東尾根、そして北峰へと続くダイレクト尾根。
このうちダイレクト尾根は75年4月初旬、S氏と挑んだのだが途中で断念。
その後数回の合宿の際計画したのだが、天候不順等で登れないままに
なっていた。

79年「餓鬼」最後の合宿となったGW.
Y氏と二人だけが都合がつき、天候にも恵まれようやく完登できた。

この毎年の合宿でなんといっても圧巻は登頂後南峰、北峰のコルから
北股本谷を滑り降りることだった。
グリセードに尻セード。あっという間にBCに辿り着く。
まるでヨダレを垂らしながら奇声を上げて、次々と滑り降りる。
まさに谷底に向かって滑り落ちるといってもよい光景だ。

あの山を見ているときは身震いさえ起こす。
-なんて無茶なことをしたものか!-と。
それでも75年、S氏とで下って安全なことは実証済みだった。
誰一人として尻込みするような者はいなかった。

あの豪快な雪渓の遊びは、私を含め「餓鬼」の仲間たちには
痛快な思い出として残っていることであろう。

by don-viajero | 2008-05-10 20:59 | | Comments(0)
2008年 02月 24日

吹雪

昨日の冬山のなかにでもいるような猛吹雪も去り、
この里でも寒いながら穏やかな日差しが降り注いだ日曜だった。

1974年。やはり2月。
初めて本格的な冬山に挑む友人三人とともに
五竜・遠見尾根に入っていた。

西遠見にウィンパー(冬用テント)を設営し、
翌日、ガスのなか白岳を経て五竜小屋まで登った。
しかし、天候の悪化を兆(きざ)し、五竜岳の登頂は
諦め早目にテンバまで戻った。

予想通り、その夜から山は荒れだした。
テントから這い出すことさえままならぬ猛吹雪。
容易には下山さえもできない状況に陥ってしまった。

閉じ込められること四日目。
そろそろ食料も底を尽き始めてきた朝。
ようやく風も止みはしたが、視界数メートルのなか撤収することにした。
しかも、その日が家族にも警察への届けも示した下山予定日だった。

ワッパ(かんじき)を履いていても胸までのラッセル。
交代で空身になり先頭に立ち新雪を掻き分けての下山。
日もとっぷり暮れたころ、閉鎖されている遠見小屋に辿り着く。
小屋の横にそそくさとウィンパーを張り、お互い喋る気力も失せたまま
シェラフ(寝袋)に潜り込んだ。

翌日は、こんな日は滅多にないというぐらいの快晴。
しかし、スキー場は不気味なほどの静けさだった。
我々はテレキャビンの終点駅まで下った。
そこで見たものは、誰もいない鍵のかかっていない
まるで夜逃げでもしたような事務所だった。
モク切れの連中は事務机の引き出しを片っ端から開け煙草を探す。
腹のへった者は、唯一食べ物と呼べるアイスクリームのボックスを
開け頬張る。

事の次第を悟った我々は、再び人っ子一人いない雪深い
ゲレンデをトボトボと降りていった。
振り向けば真っ青な空の下、キラキラ輝く新雪には
我々がつけたトレースだけがくっきりと残っていた‥‥。

このうちの二人が、今でも新年会で毎年顔を合わせる仲間である。
もちろん、酔いが回れば恒例の如くこのときの話が飛び出す。

by don-viajero | 2008-02-24 19:49 | | Comments(2)
2007年 10月 05日

針ノ木岳

日本三大雪渓の一つであるこの谷の入り口に大沢小屋がある。
「山を想えば人恋し 人を想えば山恋し」と刻まれた百瀬慎太郎氏の
レリーフが小屋の脇にはめ込まれている。

1974年4月、この小屋の上部から派生するビョウブ尾根を
単独登攀した。積雪期だけのルートだ。
天候はこのうえなく快適で、有り余る残雪を照らす春の陽光は
強烈である。時間とともに気温も上昇し、小さな雪崩が「ゴォー」
という不気味な音を残していたる所で発生している。

登り始めは膝まで潜る腐れ雪ではあったが、高度を稼ぐにつれ
しっかりした雪稜に食い込むアイゼンの歯が小気味よく刻んでゆく。
午後3時頃には、スバリ岳と赤沢岳の鞍部・白沢のコルより右手の
赤沢岳寄りの稜線に出る。
しばらく、立山に沈み行く夕日を眺め、気温が下がるのを待つ。
スバリ岳と針ノ木岳の鞍部・マヤクボのコルから豪快なシリセードで
マヤクボ沢を一人、絶叫マシーン如く興奮の大声を上げて滑り下りた。

私がこの針ノ木を訪れたのは、高校2年6月のとき。
地区の高校山岳部を対象にした登山講習会が催された。
我が校では顧問一人、同期のY氏の三人で参加。

ところが、雪渓途中にあるテン場に全員が到着し終えたとき、
どこかの部員が急病になったらしく、辺りは騒然とした。
その時である。引率に指示を受けている、地元のO高校主将N氏の
毅然として落ち着き払った姿を目の当りにしたのだった。
同じ中学の一年先輩である氏の存在は知ってはいたが、
その振る舞い、勇姿をシャモニーの名ガイド、ガストン・レビュファーと
重ね合わせていた。

ヨーロッパ・アルプス6大北壁登攀記録が収められた
レビュファー著「星と嵐」(近藤等訳)を読み終えたばかりの私は、
その本にあった細身で頑強な登山靴から延びたか細いがしっかりした
足首に見入ってしまったのだった。

それ以来、私は勝手にN氏を「O高のレビュファー」と名付けた。

運命とは不思議なもので、その氏とはいまでは隣組であり、
世話にもなっている。

それでも、彼の醸し出すオーラは相変わらず私のなかでは
“ガストン・レビュファー”そのものであることに変わりがない‥‥。

by don-viajero | 2007-10-05 20:14 | | Comments(2)
2007年 08月 09日

山/Ⅱ

高校を卒業した‥‥
というよりは高校の山岳部を卒業した私は、「孤高の人」
ならぬ加藤文太郎気取りで単独行を繰り返していた。

1974年、同人『餓鬼』設立の前の年は計78日の山行を
重ねた。その中でもピカ一は後に『餓鬼』結成に加わる
N氏との山行だ。

当時、7月下旬(26日~30日)から涸沢をベースに数日間、
竹馬の友でF高の山岳部主将だったA氏と簡単な岩場を
数本やり終えて、上高地にある高校BCに陣取っていた。
そこへ、Y氏(彼も餓鬼結成メンバー)とN氏の二人連れが
来た。この二人、滝谷をやりに来たのだった。
その日、体調の悪かったY氏はBCでの休養宣言。
急きょ、翌日(8月3日)私とN氏で前穂東壁を登攀する
話がまとまった。

奥又白谷をそのまま詰めて北尾根Ⅴ・Ⅵのコルに出た。
二人とも疲労困憊のため、Ⅳ峰直下の大きな岩の下で
ビバーグ。この判断は正しかった。一時間も経たないうちに、
空は暗くなり始め、凄い雷音。ツェルトも持って来なかった
私たちはびしょ濡れ。夕立が去った後はパンツ一丁になり、
澄み切った山々に堪能した。しかし、ゴツゴツしたガレの
上ではよく眠れぬまま、朝靄のなか早朝出発。

ところがである。目指す右岩稜の取付けを見失い、
Cフェースに出てしまった。その上を見上げると、
なんと残置カラビナが数個ぶら下っているではないか!
二人とも目的は語らずとも同じであった。

トップは私が請けた。浮石を慎重に騙しながら、少しずつ
ザイルを延ばしていく。こんな場所から逃げ出したくなる
気持ちは十二分に理解できた。しかし、汗に塗れた頬は
きっと緩んでいたに違いない。一つ一つカラビナを
回収していく。-一個〇〇円だから△△の儲けだな!-
まぁ、若気の至りというか、今思えば命知らずの行動
だったかも‥‥。
ザイルを頼りに登ってきたN氏も呆れるばかりであった。
次に続く硬い快適な岩のAフェースのトップはN氏に譲り、
無事前穂頂上に立った我々は、ルンルンで上高地へと
下って行ったのだった。

その二日後、上高地を去るN氏を見送り、私はBCで
待機していたY氏と涸沢から入り、滝谷第四尾根の登攀を
敢行したのだった。

まったく、エネルギーの塊のような身体だった。

by don-viajero | 2007-08-09 18:35 | | Comments(0)
2007年 08月 06日

山/Ⅰ

1975年2月5日
この二日前から、単独、山スキーで八方尾根から
唐松岳登頂を企てて、八方池山荘の横に雪洞を掘り、
天候の回復を待っていた。しかし、雨混じりの雪は一向に
収まる気配がなく、諦めて、この日下山した。

夕方、家に着くと高校の山岳部で同期だったY氏、
後輩のN氏が私の帰りを待っていた。Y氏が口火を切った。
「我々仲間で山岳会を作ろう!」

彼はS大学の山岳部を退部。同期で愛知出身のK氏も
同時に退部。そのK氏を加えて四人で会を結成して、
お互い金はないが先鋭的な登山を目指そうというものだった。

その頃、単独行の限界、ましてや岩への憧れを強く
抱いていた私は、どうしても、強力なザイルパートナーを
探していた矢先のことだった。彼とは高校時代、
禁止されていた近くの岩場で何回となくトレーニングをした。
その夜、酒を酌み交わし「山」談義に盛り上がったことは
言わずもがなである。

こうして、山岳同人『餓鬼』が誕生した。

2月21日~28日・北鎌尾根偵察を兼ねて、三股から
前常念経由燕の表銀縦走。(四人参加)

3月9~15日・湯俣から北鎌尾根を経て槍登頂、
上高地下山。(前回、膝を痛めたN氏は上高地経由、
横尾で待機。三人参加)

3月24日~28日・涸沢からⅤ・Ⅵのコルより北尾根経由、
前穂登頂。(Y氏と二人。コル下まで山スキー。その後、
前穂東壁登攀予定だったのだが断念)

必ず、登山計画書を地元警察署に提出していた我々
『餓鬼』は、すっかり、署内で有名になり、丁度、署員を
中心に新たな山岳会設立を模索していた彼らの誘いも
受けた。しかし、単純にポリが嫌いという理由だけで断わった。

それからは、新たな仲間を加え、ガンガン登った。
急峻な岩場を求め、静寂な雪山を目指し、
青春の限りを山にぶつけたのだった。

by don-viajero | 2007-08-06 20:29 | | Comments(0)