陽気なイエスタデイ

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カテゴリ:本( 74 )


2008年 03月 15日

ジョーク

脳みそが疲れたとき、書棚から引っ張り出すのがジョーク関連本。
「ジョーク」の宿命は、聞いたとき見たときパッと笑い、
そしてすぐに忘れてしまう。だからか、いつ見開いても新鮮だ。

先日、読み返した「とっておきのいい話」(文藝春秋編)の中から。
-5歳ぐらいの男の子が母親に尋ねました。
「ママ、新婚旅行ってなあに?」
「結婚したばかりの男の人と女の人が一緒に旅行することよ」
「ふぅん、ママもパパと行ったの?」
「行ったわよ。とても楽しかったわ」
「そのとき、ボクも一緒に行ったの?」
母親は落ち着いて答えました。
「もちろん、行ったわよ。行きはパパと一緒に帰りはママと一緒にね」-

-ある男がノミの研究をしていた。男はまず、ノミの足を一本ちぎり
「跳べ!」と命じた。ノミは跳んだ。次に二本ちぎって「跳べ!」と
叫んだ。やはりノミは跳んだ。今度は足を全部ちぎりとって「跳べ!」と
命令した。が、ノミは微動だにしない。男はノミの研究報告のなかに
次のように書き込んだ。
「ノミは全部足をちぎりとられると耳が聞こえなくなるらしい」-

-スシ詰め状態の満員電車で若い女性が必死の形相で叫んだ。
「降ろして下さい!次の駅で降りま~す!降・ろ・し・て・ッ!」
あまりにも大声をあげたので、カンにさわった中年のオヤジさん、
「ウルサイッ!堕(お)ろすなら作るなッ!」-

-瀕死の重症患者の脈をとっていたお医者さん。
いまわのきわの老人の耳元に口を寄せ、
「おじいさん最後のひとこと、ひとこと、たったひとこと」
ご老人、眼をカッとひらき「ご臨終です」-

最近見かけた秀逸な川柳「恋女房 いつのまにやら 肥え女房」
誰が言ったか川柳こそが日本版ジョーク=「冗句」であろう。

先日、某行政投稿板に投句した私の作品。
「日本中 土建化(どげんか)せんと 知事騒ぐ」

by don-viajero | 2008-03-15 14:50 | | Comments(2)
2008年 02月 16日

小説

久しぶりに長編ものを読んだ。

私が手にするものといえば、ほとんどは文庫本。
現在、単行本の新刊でも少しばかり待てば文庫になる。
なかには文庫にならないものもあるが、そのサイクルは
昔に比べ速いような気がする。
しかし、たまには「Amazon」のユーズドで単行本を購入する。
たとえば、新刊で2000円するものが、帯付で汚れもなくて
運がよければ200円ぐらいでゲットできるのだ。
もちろん、これに送料340円が加わるがそれでもお得だ。

今回購入したものは北林一光著「ファントム・ピークス」。
これは昨年、地方紙で紹介されたものである。
著者は一昨年45歳という若さで早世した。
しかも私の出身高校の後輩。
おそらく私の同窓でこういった類の小説を残した者は
いないだろう。

地元の固有名詞がバンバン出てくる。
全体の構築もしっかりしていたし、変に脚色した部分も
あまりなかった。ぐいぐい引っ張られ一気に読み終えた。

私もいつの日か「小説」らしきものを書き残したいと
秘かに企んでいる。
ただ、ストーリーを見渡せる構成力が未だに欠如しているので、
長編ものは無理かもしれない。
そこで考えているのが短編。いわゆる「ショート・ショート」だ。

私の友人に「」(かっこ)の名手がいる。
彼のブログは大いに刺激になるのだが、残念なことに
最近はとんとご無沙汰になってしまっている。

近い将来、あだやおろそかにできない洒脱な「作品」を
ヒョイと閃くように載せる日がくるかもしれない‥‥。

by don-viajero | 2008-02-16 10:07 | | Comments(4)
2007年 12月 13日

理系・文系

英・国・数・理・社のいわゆる主要5教科。
このうち得意科目だったといえるのは英・数・社。
国の漢文はチンプンカンブン。古典はコテンコテンだった。
理では特に物理が苦手だった。化学、生物は辛うじて及第点。
社の歴史は日本史、世界史も好きだった。
とりわけ地理にいたっては得意中の得意だった。
この科目は中学、高校とも良き担任に恵まれたと
いうこともあったからだろう。
こうしてみるといったい理系人間なのか、文系なのか‥‥。

作家といえば文系と思いがちだが、諏訪出身の新田次郎は
元測候技師という完全な理系人間だった。
細君である藤原ていの書籍「流れる星は生きている」が
ベストセラーになったのに触発され、処女作「強力伝」で
直木賞を受賞した。
もう一人、大町に移り住んだ丸山健二。国立仙台電波高等学校卒業。
その二年後「夏の流れ」で芥川賞を受賞し、
当時、史上最年少芥川賞作家として注目を浴びた。

骨子の整ったフィクションを構築するとなると、
いわゆる理系の持つ合理性や客観性が必要となって
くるのではあるまいか。

丁稚奉公して苦労を重ねた松本清張もそうであったように、
彼らは決して恵まれた文学環境で育ったわけでなく、
ましてや大学の文学部などとは縁もなかった。
読書を好み、大衆を広くつぶさに眺めるところから
自分の小説を創り出したのであろう。

さて、本題であるがどうも世の人々は十把一絡げ(じっぱひとからげ)
にして括(くく)ってしまいたい傾向がある。

理系・文系とまでいわなくともそれぞれの分野で中間を
歩んでいる人間も数多くいるのではないだろうか‥‥。

by don-viajero | 2007-12-13 20:45 | | Comments(0)
2007年 06月 15日

前述の通り、若い頃(高校~大学時代)しっかりと、
山に嵌っていた私が読むものといったら、専ら山に関する
書物(山行ものや山岳名著etc)だけといっても過言ではなかった。
所謂文芸書なるものは、ほとんど読んだことがなかった。

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そんなある日、駅から下宿先への道すがら、
時間を持て余していたこともあり、
小さな古本屋の店先に並べられた文庫本を
覗いた。その中の一冊『堕落論』坂口安吾著を
手にとり、それを買った。確か50円前後と
記憶している。


〈北尾根より前穂高岳登頂 '75・3月〉

その中にはこんな一節が書かれていた
― 人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可思議な
   限定とその不自由さに気付くだろう ―
更に
― 人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
   だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう ―
そして
― 堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、
   救わなければならない ―

そうでなくとも多感な時期である。
「生きよ!堕ちよ!」衝撃だった。
この本に出合ったことで、それからというものは、貪るように
夢中で次の安吾作品、次の安吾作品と読み進み、彼の著作をすべて
読み終えてからは、その作品を評する「花田清輝」「関口光雄」etc。
そして、「高橋和己」「中上健次」「倉橋由美子」・・・「植草甚一」・・・。
海外ものではジャン・ジュネに陶酔し、果てはサルトルまで行き着き、
数々の作品と巡り合うことができた。
一端の文学青年気取りで、友と文学論で口角泡を飛び交わすことも
しばしばだった。

今はというと、もっと軽い短編物が主である。
加齢とともに、言葉を忘れ、思い出したところで、
その漢字すら書くことが難しくなって、簡単な備忘録なるものを
片手に読んでいる次第だ。
これもパソコン(ワープロ)を使用するようになっての所以であろう。

ところで、我が家では、カミさんもなかなかの読書家である。
しかしながら、どういうわけか、すでに成人している三人の子供達は
本を読もうとしない。
ところが、東京で暮らしている次女が最近読んでいるらしい。
過日、帰省した折にも、一人静かに文庫本を広げて読み耽っていた。
そんな、あらまほしき姿を面の当たりにして、ついほくそえむ私である。

by don-viajero | 2007-06-15 19:28 | | Comments(2)