陽気なイエスタデイ

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2007年 09月 27日

ギャンブル

御多分に洩れず、大学入学とともに麻雀を覚えた。

パチンコは高校時代から、そう多くはなかったが部活が休みの時には
電車の時間調整で駅前の店に通った。(当時、私服であったため)
昔のパチンコは悠長なもんで一つずつ玉入れをしていたから、
時間も潰せたし、そんなに被害はなかった。
生活指導員のおばちゃんの情報網もしっかり伝わっていた。
通路に落ちている玉を拾い集めて、資金0で稼いだ時もあった。

三年次も押迫った頃だったろうか。いつものメンツで雀荘に通い詰めた。
しかし、その頃から毎回の如く、役満を振り込んでばかりいた私は、
食事すら事欠き、糊口をしのぐ生活をする羽目に陥った。
通学する電車の中で立ち眩み目の前が真っ暗。しゃがみ込んでしまった。
―このまま目が見えなくなるのか?何故だぁ―
なんてことはない!空腹で貧血を起こしただけだった。

それ以来、麻雀とはオサラバ!
要は己に博才がないことを悟った瞬間だった。
パチンコも20歳代後半で止めた。競馬、競輪はやったことがない。

仕事先でお茶の時間でもパチンコの話題はちょくちょく持ち上がる。
毎朝のチラシにもお盛んな今日この頃である。
しかし、彼等の話は儲けたことだけ!
誰一人として大損したことは語らない。
いまだかつて、パチンコで家を建てたなんて人(オーナーは別)の
話は聞いたことがない。
田畑売り払い、挙句に借金地獄。パチンコ依存症だ。

いまでは年に二回、宝くじを購入するくらいか?
最高で一万円を当てたことが一回だけあった。
それでも三千円は結構当たる。

中学の時、某菓子メーカーでウォーカー・ブラザースと
ポール・マッカートニーの等身大ポスターを当てた。
これが当時の自分にとって、一番の自慢できるもので
あったかもしれない。

今年、ある友人からの年賀状の一等当たり番号末尾が
数番違いであった。その当選ハガキが届いたのは我々
共通の友人であった。
6月、夫婦でハワイへ行ってきたとメールが届いた。

博才ばかりか、くじ運にも見放されているらしい。

by don-viajero | 2007-09-27 20:05 | エッセー | Comments(0)
2007年 09月 23日

運動会

初秋を迎え、そこかしこから運動会の話題が聞こえてくる。
ただ、今年は彼岸の入りになっても真夏日という異常気象で
熱中症の方が心配らしい。

小学校時代、「かけっこ」は苦手であった。こちらの方言では
「飛びっくら」。
最近ではとんと聞かなくなった言葉ではあるが‥‥。

そうは云っても運動会は「かけっこ」だけではない。
いろいろな種目が目白押しである。
足の遅い者でも充分楽しめる。騎馬戦、大玉送りetc‥‥。
手弁当で応援に来てくれる親との食事も楽しかった。

共働きをしていた我が家では帰宅しても誰も居ない。
玄関を開けて
「ただいま!」
と言ってみたところで返事など聞こえるはずはない。
だからこそ、かばんを放り投げて暗くなるまで遊び呆けた。
自宅に待ち人のいる友が羨ましかった。
運動会というピクニック気分での触れ合いがどんなに
うれしかったかしれない。

以前、聞いた話ではあるが、最近の「かけっこ」は極端な優劣を
付けさせないように、足の遅い者はトラックの内側、速い者は
外側を走らせるらしい。
一種のアドバンテージである。しかし、これはチトおかしい。
そうであるならば、勉学においても成績の芳しくない者にも、
アドバンテージが必要となりはしないだろうか?

足の速い友を羨望しながら尊敬の念まで持っていた。
スポーツが駄目でも勉学に優れている者。美術、工作に
秀でた者もいる。それぞれが得意になれる場面だ。

先日読んだ地方紙にこんな記事が載っていた。
「かつて運動会の花形であったリレーを最終種目にしなくなった。
特定の子だけが注目されるから‥‥」

なんともおかしな理屈である。なにも取柄はないが走ることだけは
誰にも負けない。そんな子がヒーローになれる場を一部の大人たち
のクレームで失われようとしている‥‥。

by don-viajero | 2007-09-23 19:28 | エッセー | Comments(2)
2007年 09月 20日

親子

揺籃期にはありがちなことではあるが、親に叱られて素直に
謝ることをしなかった。それは幼心にも
―ごめんなさい―
という一言を発する理由が見あたらなかっただけだ。
何故、自分が怒られなくてはならないかを‥‥。
自分の子を見ても、孫を見てもそうである。

姉との姉弟喧嘩も
―オイラは悪くない!悪いのは姉ちゃんだ!―
そんなこともあって、謝るまで家の通し柱に三尺帯で縛り上げられた
こともあった。結局は我を通しそのまま寝込んでしまったのだが‥‥。
さりとて、今で云うDV親父を恨むことなど論外であった。
そうやって、みんな大人に近づいてきたのだ。

親にとって善悪を教え込むことは、子供の成長にとって必要不可欠な
ことであろう。
その親が善悪を省みなかったときにはどうであろうか‥‥。

子供のときには天を覆う全能の存在だった親を乗り越え、
すりぬけ、かわしながら人は大人になる。
もし、あの16歳の少女が目前の父を殺すことでしか大人に
なれないような場所に迷い込んだのなら、父娘というには
あまりにむごい。

子供には大人になる過程において思春期の迷路を友と語り、
己にとって良き友と行動し、様々な人生を学び取り、一人で
彷徨う時間が必要だ。それらを通して揺籃期からの脱皮をし、
穏やかに親離れを果たし、自分の生きる現実をしっかり掴み取る。
そこにはすでに親にできることはあまりない。

我が子の成長が我が手を離れることによって、やがて大人同士の
新しい親子の関係を取り結ぶのではないだろうか‥‥。

by don-viajero | 2007-09-20 21:11 | エッセー | Comments(2)
2007年 09月 18日

異邦人

♪子供たちが 空に向かい 両手をひろげ
 鳥や雲や 夢までも つかもうとしている
 その姿は昨日までの 何も知らない私
 あなたに この指が届くと 信じていた
 空と大地が ふれあう彼方 過去からの旅人を呼んでる道
 あなたにとって私 ただの通りすがり
 ちょっと振り向いて みただけの異邦人

 市場いく 人の波に 身体を預け
 石だたみの 街角を ゆらゆらと彷徨う
 祈りの声 ひづめの音 歌うようなざわめき
 私を 置き去りに 過ぎてゆく 白い朝
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これを初めて耳にしたとき、私の脳裏に浮かんだのは、
今では、容易に行くこともできないアフガニスタンだった。

当時アメリカナイズされ、道には車が溢れていたパーレビ王朝時代の
イランから国境を越えると、一昔も二昔もタイムトンネルで迷い込んで
しまったかのようなアフガン・ヘラートの街。
一泊200円の安宿の窓からは無舗装の道のど真中で話し込んでいる男達。
全身をチャドルで覆い隠し道ゆく女性達。鶏を捕まえようとキャーキャー
追いかけ回る子供達。ときどき通る馬車からチャリンチャリンと蹄の音と
ともに響く鈴の音。車はほとんど走っていない。稀に見かけてもそれは
時代物のオンボロ車。夢の世界にでもいるようであった。

かつてチンギス・ハーンにサマルカンド(ウズベキスタン)同様、草木と
雖(いえど)も生きしものすべてを焼き尽くされたヘラートに辿り着き、
漸く『旅』に出た目的が何であったか気付いた。
それは、『旅』をすることが目的だったのだ。
出来得るならばこの夢のような街に一週間でも二週間でも居たい。
そんな素朴で愉快な街であった。

特段の産業もない、こののんびりした農業国が旧ソ連の進行に始まり、
タリバンに制圧され、今またそのタリバンを追い出そうとしたアメリカの
『テロとの戦い』という錦の御旗の下、ズタズタにされている。
いまだに、アフガンでは血が流れ続ける‥‥。
一体、いつになったらこの国のキラキラと輝く子供達の眼差しを
見ることができるのだろうか‥‥。

by don-viajero | 2007-09-18 19:06 | ◆旅/全般◆ | Comments(0)
2007年 09月 14日

北の大地/Ⅲ

外は相変わらずの荒れ模様。もう一日叔父の家に厄介になる。
昨日の疲れもあり、我がままを云って遅くまで寝させてもらった。
ストーブのガンガン焚かれている部屋で、飼い猫の「五右衛門」
「バンド」2匹とじゃれ合う。

3時頃、吹雪も止み、重く垂れこめた雲間から僅かな光が差し始める。
やおら下駄を履き流氷の詰まった港まで歩いて行く。帰り際、
お茶を濁すほどのことではあったが、一つの目標を達成した。

翌朝、叔父叔母に見送られ、南稚内駅7:30発、旭川行の列車に
乗り込む。座席の前には、北国の厳しさに刻み込まれた深い皺をよせ、
まるで春を待ちわびる子供のように如才ない笑顔で語りかけてくる
おばあちゃん。旭川までずっと他愛のない話に興じた。別れ際、
やはり皺くちゃな手の平からみかんを二つ差し出された。

爽快な気分同様、カランカランと下駄の音を響かせながら、
12:24発釧路行に乗り換え、網走には夕刻4:50に到着した。

この地に住む叔父に数回電話をしたのだが留守であった。
仕方なく駅前のビジネスホテルに投宿。
近くにあった赤提灯の縄暖簾を潜り、壁に吊るされた品書きの
「チノム」*1)の冷を注文する。時間が早いせいか客は私一人。
薄汚れた割烹着を着込んだおばちゃんからは滔々とアイヌ談義を
聞かされる。

翌日はいささか肌を刺す冷たい風が吹いていたが、北の大地で
初めての快晴。午前中は流氷観光バスでサロマ湖へ。僅か10人
という少人数の観光巡りであった。

再び午後の列車で釧路へと向かう。車窓からは流氷ですっかり
蚕食されたオホーツクを左手に、反対側には周りを凌駕する
斜里岳が目前に高く聳え立っている。

釧路乗り換えで夕刻根室に着き、タクシーでS氏宅を訪ねる。
スキーに出かけた彼を待つこと30分。私の前に現れたS氏は
インドでより少しばかりふっくらしたように見えた。
二人で銭湯に行き、夜の街へ繰り出した。

アグラで同宿した日本人女性グループが馳走してくれ、二人で飲んだ
「日本の優しい酒」の味が二軒目の店で蘇った。S氏はすでにろれつも
回らぬほど酔いつぶれてしまい、想い出を語り合うには
余りにも短い時間が過ぎ去っていった‥‥。

*1)チノム‥アイヌ語で酒。他に「トノト」ともいう。

by don-viajero | 2007-09-14 18:43 | ◆旅/全般◆ | Comments(0)
2007年 09月 10日

北の大地/Ⅱ

そのころ北海道では父の従弟が四人、それぞれの地で暮らしていた。
一人は礼文島、一人は網走、そして残る二人は稚内。
さすがに冬の島まで渡ろうという気にはなれず、
北の果て、稚内まで行くことにした。
「奇貨(きか)居(お)くべし」といったところであろうか‥‥。

函館に着いた私は街を散策することなく、14:30発
「ニセコ2号」に飛び乗った。
吹雪はますます激しくなり、列車は長万部駅でストップ。
小樽経由は運行中止となり、札幌行きを希望する乗客全員が
苫小牧経由の「すずらん2号」に乗り換える。
札幌駅に着いたのはすでに夜8時を過ぎていた。

すべてにおいて北の中心である札幌の空気に触れるため改札を出る。
一時間ほどブラつき、再び駅に戻り稚内行21:20発に乗り込む。
翌日6:30、日本最北端の街、稚内に到着。
早速、一人の叔父に連絡をして迎えに来てもらった。

朝食を馳走になっている時である。叔父が
「もう一人のおじさんNが経営しているタラ加工工場の手伝いに行こう」
「はい、わかりました」
と言ってはみたものの内心は夜行で疲れた体を午前中ぐらい
休ませたかったのだが‥‥。
「Nも逢うのを楽しみに待っているぞ!それに今、一番忙しい時なんだ!
若者は貴重な戦力だ」
もはや、ここまで言われてしまえば行かざるをえない。

工場に着き、挨拶もそこそこにハイウェーダー*1)に着替えさせられ、
ベルトコンベァーの前に立つ。初めは面白かった。
どでかいタラの腹から『バクダン』という鱈子を引っ張り出す。
それを取り出した後はトビに引っ掛けコンベァーに載せる。
なかなかの力仕事であった。いくら楽しかったとはいえ、夜行で来た身、
疲れがドッと出る。全身潮に塗れ、山の匂いが消え、今度は海の匂いだ。
皮肉なものだ。

夕食は従業員みんなで加工したばかりのタラ料理。
疲れも手伝い、料理も酒も美味しく頂いた。
とりわけタラのエラの刺身は逸品であった。

立て付けのあまり良くない休憩室のガラス戸をガタガタ揺らす風。
外は猛吹雪。横殴りのブリザードが吹き荒れている。
まるで荒れ狂った冬山だ‥‥。北の地に住む人々の生活の厳しさを
少しでも味わえたような気がする‥‥。

*1)ハイウェーダー‥胸まであるゴム製の防水ズボン

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       足元注視!下駄履きで~す!

by don-viajero | 2007-09-10 20:24 | ◆旅/全般◆ | Comments(0)
2007年 09月 06日

北の大地/Ⅰ

♪上野発の夜行列車 降りたときから 青森駅は雪の中
 北へ帰る人の群れは 誰も無口で 海鳴りだけを聞いている
 私も一人 連絡線に乗り 凍えそうな鴎見つめ 
 泣いていました あぁ津軽海峡・冬景色♪

3月初旬、山岳同人「餓鬼」の合宿(白馬・杓子双子尾根
3月2日~7日)を終え、翌日東京へ戻る。
アパートはすでに引き払っていたので友人宅に泊めてもらう。
翌朝、その足で一人上野駅へと向かった。
学生最後の学割を使っての旅だ。

目的は二つ。
一つはこの時期北の大地に接岸する流氷に乗ること。
しかも、素足に下駄でだ。
もう一つは根室に在住のS氏との再会。
彼とはインド・ヴァラナシの宿で逢い、その4日後アグラで偶然同宿し、
インドの奇祭『ホーリー』*1)を共に体験した仲である。

夜行列車ではなく、暖かな3月の陽光に包まれた朝を迎えた
上野発9:30発「特急・はつかり」に乗車。青森には夕刻6:30に着く。
青森駅はそこかしこに堆く積み上げられた雪の塊の中にあった。
深深と冷え込んだ駅に迎えに来てくれた友人の家に行き、
一泊世話になる。

翌日、小雪の舞う中を歩いて青森駅まで向かう。
初めての街をゆっくり観察する為である。

青森発9:30。奇遇にもそのときの船長が私と同じ苗字の
青函連絡船「津軽丸」。
海峡はまさにこの歌の通りだった。横殴りの冷たい雪がガラス越しに
叩きつけ、一度も甲板に出ることもなく函館着1:40。
先日、就航したばかりの「ナッチャンRera号」。
片道たったの1時間45分あまりで渡ってしまえば、こうした情緒など
無縁なことになってしまうことであろう。

初めて踏みしめた北の大地は吹雪の歓迎をしてくれた。
重い鈍色(にびいろ)の空から寸断なく舞い落ちる乾いた冷たい雪が
素足の上で次から次へと溶けていく‥‥。

*1)ホーリー‥ヒンドゥ教の三大祭りの一つ。
       毎年3月(ヒンドゥ暦のファルグナ月)の満月の日に
       行われる。春の訪れを祝い、早朝から色水などを
       掛け合う水掛祭り。

by don-viajero | 2007-09-06 20:49 | ◆旅/全般◆ | Comments(0)
2007年 09月 03日

薩摩守

同郷で山仲間のY氏が私の下宿先を訪ねてきた。
当時、田舎では手に入りにくい用具の買出しで上京してきたのだ。

大久保の登山用具店で必要な品は大方買い揃えることができた。
しかし、あまりの出費で帰りの急行電車は諦めざるをえなかった。
彼に合わせて帰省を考えていた私とて、貸せるほどの余裕はなかった。

翌朝、デカおにぎりを作り、街角で拾い集めた雑誌数十冊を二人の
ザックに押し込み、新宿駅の入場券だけを買い求め、
新宿駅発高尾山行に乗り込んだ。高尾山→甲府→松本とすべて
各駅停車の列車に乗り換え、まる一日がかりの帰省であった。
松本駅までの定期券を持っている彼は下車後、私のために一枚の
入場券を買ってきてくれる。こうしてキセルが成功した。

こんなこともあった。
やはり、私だけ松本駅の入場券を買い、甲府まで急行に乗り、
折り返し、急行松本行に乗り換え帰ってきた。
何故、甲府までかは特筆大書するほどのことではないので割愛する。

ひと気の少ない西口の改札口にあったボックスにその券を投げ入れ、
素知らぬ顔で出たところ、背後から、
「待てぇ!」
「待てと言われて待つバカなどいないわぁ!」
徐に下駄を脱ぎ、裸足になり一目散に逃げた。逃げ果せた。

平家物語に登場する「平忠則」(たいらのただのり)が薩摩守
(さつまのかみ)であったことから「さつまのかみ=ただのり」

すべてが時効になったことではあるが、昔は検札も今ほど頻繁にはなく、
ちょくちょくこの薩摩守を成功したものだった。
勿論、検札が来たからといって逃げ隠れはせず、その時には、
素直に乗車券は買い求めた。

古き良き時代の戯事(ざれごと)である‥‥というよりは犯罪だネ!

by don-viajero | 2007-09-03 20:11 | エッセー | Comments(0)